セラピストのつぶやき

セラピストの道を歩き始めて、約2年半が経ちました。
この時間の中で、いちばん大きく変わったことがあります。
それは、視線が「外」から「内」へ向いたことでした。
セラピストという仕事は、
誰かのために、誰かを癒す存在。
そんなイメージを持たれがちです。
けれど、実際にこの道を歩いてみて、
僕が何度も何度も立ち返ることになったのは、
「まず、自分に視線を向けること」でした。
ヨーガや瞑想を通して。
呼吸に意識を向けることを通して。
そして、自分の身体にそっと触れることを通して。
僕は少しずつ、
外側の世界から内側の世界へと
視線を戻していったのだと思います。
その過程で、
これまで避けてきた自己否定と向き合い、
見たくなかった自分の一部と向き合い、
気づけば、心と身体がゆっくりと緩んでいきました。
そして、あるとき
とても大きな氣づきが訪れました。
「触れるとは、触れられること」
これは、いったいどういうことなのでしょうか。

セラピストの施術風景を写真や映像で見ると、セラピストがお客様に対して何かを「してあげている」ように見えることが多いと思います。
セラピストが働きかけ、お客様がそれを受け取っている。
でも、実際の施術の現場では、それほど単純な構図ではありません。
物理の授業で学んだ作用・反作用の法則を思い出してみてください。
相手に触れれば、必ず、自分も触れられます。
たとえば、手のひらで誰かの身体を撫でているとき。
その瞬間、僕は相手の身体だけでなく、自分自身の手のひらをとてもはっきりと感じています。
なぜか。
それは、相手と接触していることで、相手もまた、僕に働きかけているからです。
触れているつもりが、同時に、触れられている。
つまり、施術やマッサージとは、一方通行の行為ではなく、触れ合いであり、交流なのです。
この感覚は、施術の場だけに限った話ではありません。
私たちは日常の中で、「自分が中心で世界が回っている」
そんな錯覚に陥りやすい生き物です。
自分の言葉は一方的。
自分の行動も一方的。
そう思い込んでしまう。
けれど、触れるとは触れられること、という視点で世界を見てみると、その考えは静かにほどけていきます。
自分が誰かに向けて発した言葉は、同時に、自分自身にも返ってきている。
自分が誰かに向けて取った態度は、自分の内側にも、確実に影響を与えている。
私たちは、一方的に生きているのではなく、常に影響し合いながら生きている存在なのだと思います。
そう考えると、人生とはとても美しい共同創作のようにも感じられます。
誰かと。
何かと。
目に見えるものとも、目に見えないものとも。
刺激し合い、響き合いながら、この人生という物語をみんなで編んでいる。
そういう意味では、本当の「孤独」や「完全な一人」という状態は、存在しないのかもしれません。
人と人との間にあるつながり。
人と自然とのつながり。
人と無機物とのつながり。
意識を向けてみると、私たちは常に、何かと触れ合いながら生きています。
この視点を持ち始めてから、世界の見え方が少し変わりました。
人も。
身体も。
命も。
どれもがとても尊く、奇跡の連なりの中にあるのだと、自然と感じられるようになったのです。
触れるということは、触れられるということ。
癒すということは、同時に癒されているということ。
そんなことを、施術の時間の中で、そして日常の中で、何度も何度も教えてもらっています。
今日は、そんなセラピストとしての小さなつぶやきでした。

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